宮沢ひろゆきの自叙伝

幼少期~大自然の中で

遠州の名峰龍頭山を仰ぐ龍山村瀬尻に私は生を享けた。眼下に天竜川を見下ろす尾曲という十軒ほどの集落だ。かつて瀬尻は「背尻」と表記されていたらしく、龍の頭・背・尻・尾とつながっている。尾曲に生まれたのだから「僕は龍の子どもだ」と勝手に思って、ここに生まれたことを誇りに感じていた。

その龍頭山は、春の新緑も美しいが、雪化粧に夕日が映える姿もたまらなく美しい。風薫る茶畑、こだま響く天竜美林、水無月の天空に舞う武家凧、圧倒的な大自然と山里の素朴な文化の中で、私は幼少期を過ごした。

宮沢ひろゆき子供の頃

父は土木の作業員、母は農協の職員、祖父は県の道路作業員を退職して神職となり、祖母は熱心な仏教徒であった。朝は神棚を拝み、仏壇に合掌するのは今でも欠かさぬ習慣だ。年末には、祖父母・両親、私と妹の三世代で注連縄と餅を作った。新しい年の神様を迎える準備をすると、神仏の恩、自然の恵み、祖先からの命を、知らずしらず再確認する。そこに、言葉はいらなかった。

父は、隣の佐久間町から婿に入って宮澤を名乗ってくれていた。毎夕、泥と汗にまみれて帰ってくる父の姿から、「働く人の姿はかくあるもの」と思うようになっていた。

母が時折口にした

楽をして稼ぐ多くのお金より、
苦労して稼いだ少しのお金のほうがずっと値打ちがあるのだよ。

との言葉は今でも心の中で生きている。

小学校は、秋葉ダムによって堰き止められたダム湖の湖畔にあった。山の上の我が家からは行きに徒歩で四十五分、帰りは登りだから一時間半かかる。夏は蛇に出会うのが恐ろしかった。冬は猿の群れに遭遇する。猿を面白がって騒いだりしたが、今思えば大変危険だ。

車道である林道は途中までしか通っていない。親の車で帰ってきても、最後は二十分ほど山道を登らなくてはならないのだ。
その大半は「そり道」だ。正しくは「木馬道」というらしい。当時はまだ、伐採した木材を人力で搬出していたため、そり(木馬)が滑る枕木が延々と並べられていた。そりの上に大人の背丈ほどに木材を積む。その中で一本だけ前に突き出している。そり道の中央部に所々ワイヤーが括りつけられた杭が埋められており、一本だけ前方に出した材木に、そのワイヤーを巻き付けてブレーキにしながら下ってくる。

秋から冬によく木材搬出のそりに出会った。避けようにも平地などない。斜面の上か下かにへばりついてそりが過ぎるのを待つ。すれ違う時の山のおじさんたちはみんな優しかった。

宮沢ひろゆき小学校卒業

小学校の夏休みのプール開放も徒歩で通った。なぜか水泳の猛練習をさせられたが、時折、水遊びもある。息を吐くと体は沈む。プールの底で仰向けになって水面を見上げると、太陽がキラキラ輝いて見えた。夏の日の水底の景色、美しかった。

中高生時代~立志と鍛錬~

中学校は村のちょうど真ん中にあって、かなり遠かったため、路線バスでの通学だった。昭和の終わりごろでまだまだ厳しい教育が残っていた記憶がある。

宮沢ひろゆき学校の廊下にて

中学一年の夏のある日、祖母が奥の間の押し入れから、金鵄勲章やら水兵帽やら、兵隊さんの遺品を出して見せてくれた。それまでは、仏壇の上に帽子を被った若いお兄さん二人の写真があるなあと漠然と思っていたが、それは祖父の弟で、戦死したのだという。「靖國神社」さえ読めなかったくらいだ。二人は祖父の弟で、上の弟は海軍。潜水艦に乗艦していて、身体がひどく腫れてしまって横須賀の海軍病院で亡くなったそうだ。下の弟は陸軍。右目が不自由であったにも拘わらず甲種合格となって南方へ出征してそこで戦死したと祖母が言った。(実際の記録上は、河北省の病院で戦後に亡くなったとされている。)

その遺品を見て、祖母の話を聞いて「ご先祖さまが国のために命を捧げたのなら、僕も国のために頑張ろう。」そう思って、自衛隊に行こうと考えるようになった。そうするには防衛大学校に行かなくてはならない、そのためには身体も頭も鍛えなくてはならない、ということで鍛錬の日々が始まった。

しかし、中学三年の夏、晩酌中の父が言った。

ことが起こってから国を守るのではなく、
そのこと自体を防ぐ人間になれ。

なるほど、と思った。国を守るなら政治だ。政治家になるしかない。志を立てた十四歳の夏であった。

政治家になるといっても、道筋はよくわからない。とにかく東京大学に行こう。そこに行ける高校に進学しよう。ということで、地元の磐田南高校に進んだ。

磐田は天平のころには遠江国の国府・国分寺があり、江戸時代には見附宿として栄え、現代でも農業生産も盛んで、さらにヤマハ発動機の本社やスズキ自動車の主力工場、その下請けの企業が立ち並ぶような地方の中核都市である。

龍山村で育った私からしたら、磐田は大都会だった。「並大抵の努力では這い上がれない。」と覚悟したが、磐田南高校に入ってみれば自由な校風で、少し意外な感じもした。色々な生徒がいて、それぞれの得意分野があり、勉学でも運動でも文化活動でも、朝夕問わず努力する姿が至る所で見られた。そんな姿から自然と学び合えるのも、わが母校の大事な気風だと思う。

中学から始めた剣道も、高校では人一倍努力したつもりでも正規の選手になれなかった。高校生活で学ぶべき自己鍛錬、チームワーク、達成感、勝利への道筋、それらの程よいバランスなどなどは残念ながら身に染みていない。今もなお剣道を続けているのは、高校時代に剣道が下手だったから、長く続けて高段者になろうとの思いがあるからである。

三年生の時には生徒会長を務めることになった。演説の鍛練としては最高の舞台だったと思う。

それらの活動と並行しての勉学は、はっきり言って苦しかった。投げ出したいと思ったことはないが、休みも娯楽もなく勉学に励んだ。すべて志を遂げるためである。しかし、苦しい三年間も今や良い思い出だ。

青年期~苦悩と初心~

東京大学に入学はしたものの、自由というのは過ごしにくいものであった。応援団に引き込まれたが、剣道を続けたいとのことで剣道部に入部した。しかし、父が体調を崩し、やむなく退部。そこからはアルバイトをしながらの学生生活であった。しかし、三年生になったとき、「緑会」という組織に目が留まった。学生自治会である。楽しいというものではないが、そこでの活動は生活に張りを与えた。

宮沢ひろゆき背広

さて、就職である。官僚を目指すのが王道かもしれない。しかし、父の泥と汗にまみれて働く姿が目に浮かぶ。本当に官僚でいいのだろうか。ちょうど、大蔵官僚の不祥事、厚生官僚の不祥事が重なり、迷いが迷いを生み、就職活動もままならず、就職氷河期にも重なり、全敗。普通は留年するのであるが、学費を親に出してもらうわけにもいかず、あえなく就職浪人という結末。ファミリーレストランでコックのアルバイトをして食いつないだ。

宮沢ひろゆきシェフ

翌年はなんとか商品先物取引の会社に入社できた。二年目に入って少し落ち着いてきたころ、ふと当初の志を思い出した。

国を守るなら政治家だ。

どうしたらよいか分からなかったが、学生時代から顔を出していた高校の同窓会総会に行ってみた。そこでかなり年上の先輩に声をかけられた。

おい、帰ってくる気になったのか?

市議会議員の先生だった。

後日、先生を訪ね、いろいろとご指導いただいた。

地方議員から這い上がれ。

磐田に帰った。先ずは仕事探しだ。手っ取り早く塾の講師となったものの、夜と土日が仕事で、活動もままならない。昼の仕事に転職した。工場請負の管理担当者、いわゆる工場の作業員を派遣する側の仕事だった。世界の景気、日本の景気、業界の景気、商品の売れ行きなどのあらゆる波は、最終的に雇用という形で庶民に影響してくる。

一言で「受け皿」といっても、そこには人の人生がかかっている。真面目にコツコツ働く方もいれば、イヤになると寮から姿を消す者もいる。大量解雇の現場にも立ち会った。胸が締め付けられた。一人ひとりの思いを受け止めながら、引っ越しや退去の手伝いをした。怒鳴られたこともある。そして私も、別の部署へと異動になった。豊橋だ。

地方選挙まであと一年。豊橋ではしんどすぎる。今度は別の会社で派遣される方になり、現場のラインでオートバイの製造に携わった。きちんと働けばきちんと評価される、当然のことだった。手先もそれほど不器用ではない。残業代も付く。仲間も楽しい人たちだった。

しかし、自分は派遣社員だ。もし、身体を壊したら収入も途絶える。極めて不安定な状態にあることは分かっていた。

ふと、小学生の時の記憶がよみがえった。夏のプール開放の時だ。プールの底に沈んで上を見上げると、太陽がキラキラ輝いて見えた。

今、自分は社会の底辺にいる。小学生の時のプールの底と同じだ。

それが当時の素直な思いだ。

政治の道へ

普通に働けば食べていける。頑張れば豊かになれる。そういう社会を作るのが政治の使命なのではないか。その時から一貫した思いである。

塾講師、派遣管理者、派遣社員として働く一方で、地域において、祭り青年、消防団、青年団の活動にも参加した。子供のころ、龍山村でも同じような若者が地域を盛り上げていたが、それが社会人としての必修科目だと思っていた。

宮沢ひろゆき仕事中

平成十五年四月、磐田市議会議員へと立候補した。多くの仲間に支えられての戦いだった。無茶な立候補だったかもしれない、多くの方に迷惑をかけたかもしれない。今でも、省みれば恥ずかしいことばかりであったが、支えてくださった方々には、今でも感謝の気持ちは忘れない。

平成二十一年八月、自民党は野党に転落した。市議会議員は、国政選挙では最前線の運動員だ。逆風を直接受けた。自分の選挙以上に力を入れても、逆風を跳ね返せない。自民党は信頼を失ったのかもしれない。しかし、政策全てが間違っていたとは思えないし、これからも保守政策は必要である。

平成二十二年の年明け、意を決して自民党の支部長に応募し、立候補予定者になった。

ここから国政への挑戦が始まった。